◎特集 初めての植栽と草刈り
「牛の背」の星ふる里にウルシを植えよう!
❖ 特 集
初めての植栽と草刈りまずは植える! そこからしか何も始まらない!
破壊された里山の経済をもう一度取り返したい。その一念の為に、今年の3月、500本のウルシと50本のクロモジ、それに5本のイチョウを加えた合計555本の苗木を、「牛の背」の田村市都路、いわき市四倉の二地区に植栽した。
都路地区の植栽地 |
私たちは、これらの木について深い知識があるわけではない。むしろ無知に近いと言った方が正しいだろう。それに資金も労力も乏しい。しかし、そういったものは後からいくらでも補填が可能だ。一方、木々の生長には時間がかかる。今始めなければ20年後、30年後の未来はない。だから無謀と言われるのを承知の上で今春555本の植栽を強行した。
植栽に向けた第一歩は、届いた苗木の一本一本に視認用のピンクのリボンを付けることから始まった。言うまでもないが、ウルシの苗木を見るのは生まれて初めてだった。
「ふ~ん、 これがウルシか……?」
そのレベルだ。枝はない。直径5㎜ちょっとの細い幹が一本、小さなポットからぬ~っと伸びているだけだ。
植栽は、3m間隔に印をつけた長さ50mほどのロープを一直線に延ばし、印のついた所にクワで穴を掘り植えていく。一列(20本弱)が終われば、隣の列も同じように3m離して平行にロープを張ってクワを振る。その繰り返しだ。こうして300坪(1、000㎡)あたり100本のウルシを植えていった。
少ない本数だったが、今年の植栽を通して学んだことは計り知れない。また予想を遥かに超えた落とし穴もあった。それはズバリ植栽地の管理。つまり、酷暑の中での草との闘いだった。
植栽したメンバー。右端が都路の青木さん |
植栽から2か月後の5月18日。福島県内数カ所で気温が35℃を超えたこの日、炎天下の中で一回目の草刈りを行った。
事前に「草が伸びてウルシが隠れて見えなくなっている」との知らせが現地から届いてはいたが、「なぁ~に一反弱の面積なら2時間もあれば楽勝!」と、タカをくくっていたのが大きな間違いだった。
現場はいわき市四倉。車で植栽地に近づくと、辺り一面は1mを越さんばかりの草に覆われ、植栽地とそれ以外の土地との区別がさっぱりわからない。
「どこだ、どこだ?」
と、ようやく手前にあるピンクのリボンを探し当て、植栽地を確認した。ところが、中に踏み込んで唖然とした。何十年もの間、使われてこなかったかつての畑は、やはりタダモノではなかった。ウルシの周りはもちろん、全体を野バラやツル科の植物、それに名も知らぬ植物が覆い尽くしている。
これまで、田んぼの畔の草刈りはしてきたものの、その経験が全く通用しないことは一目瞭然だった。
「どうするか?」
目の前の光景に気持ちは限りなく引けてしまったが、途方に暮れていてもラチがあかない。まずは草刈り機を使用した時に、肝心のウルシを切断したり傷つけたりしない為に、草に埋もれたウルシの周りを鎌で手刈りすることから始めるしかなかった。
目の前の光景に気持ちは限りなく引けてしまったが、途方に暮れていてもラチがあかない。まずは草刈り機を使用した時に、肝心のウルシを切断したり傷つけたりしない為に、草に埋もれたウルシの周りを鎌で手刈りすることから始めるしかなかった。
この作業に二人でほぼ一時間。とは言え、腰を下ろした状態で、しかも直射日光が容赦なく降り注ぐ中での作業は、「ウルシと会話をしながら草刈りを楽しむ」ような余裕は全くなかった。
「二時間あれば楽勝!」
という当初の予想はとっくに吹っ飛んでいたことは言うまでもない。
実際、この後の植栽地全体の草刈り機を使っての作業は3時間近くに及んだ。地面が平坦でない上に、伐採した木の切り株や石ころがあちらこちらに残り、歩きづらいだけでなく、足腰が定まらないのだ。おまけに草刈り機の振動で指先は痺れ、耳がツーンとする熱中症の予兆まで現れた。何度も休息を挟んでの作業は苦行・難行そのものだった。
ちなみに、今春植栽したもう一箇所、田村市都路地区の植栽地は現地で管理が行われている。従ってこの間、我々が直接草刈機を使っての作業はしていない。しかし、植栽以降、全てが順風満帆にきたというわけではない。いわき市四倉地区のように、覆いかぶさる草との闘いはなかったが、別な意味での想定外の事態に直面した。
葉が出ているのはたったの一本?
「阿武隈山地の桜前線は北上するのではなく南下する」
と地元で言われるように、この地域は南に下るほど気温が低い。都路地区は阿武隈の中南部に位置し標高は600m弱。桜から新緑へと季節を変える4月25日と5月12日、この地区を季節外れの寒波が襲った。都路ではあたり一面が真っ白くなるほどの霜が降り、氷が張った。
「現場を見る前に最初に言っておきますが、ガッカリしないでくださいね。この二回の降霜で、芽吹いた葉のほとんどが枯れ落ち、いま葉をつけているのは一本しかありません」
現地で管理をしてくれている青木一典さんに、植栽地に立ち入る前にそう教えられた。
四倉では猛暑の中での草刈りに辟易しながらも、心を癒し希望の明かりを与えてくれたのは、草の中に埋もれながらも、幹は天に向かってまっすぐ伸び、何枚もの葉を幾重にも重ねていたウルシたちの雄々しいばかりの立姿だった。都路ではそれが望めないと言うのだ。
実際、植栽地に行って見ると
「エーッ!」
「マジかよ……?」
と呻くだけだった。200本近くのほとんどが葉をつけていない。
「全滅か……?」
と不安がよぎった。
そんな私たちに青木さんは、
「大丈夫! よく見てください。芽はまだ残っていますから……死んではいません。それに一番奥の一本は葉をつけていますよ」
私たちはその一本を目指して奥に行ってみた。すると、確かに葉を伸ばし立ち誇っていたウルシが一本だけあった。その「奇跡のウルシ」は植栽地の一番東側のどん詰まり、山際で頭の上を山からのびた広葉樹の枝葉に覆われ、少なくとも午前中は陽の当たりそうもない場所に植えた苗だった。しかし、皮肉にもこの条件の悪さが、逆に降霜から新芽を守った。
自然の持つ絢は、我々程度の人間の人知を遥かに超えている。
都路のウルシは、青木さんの言葉通り、その後、新芽が伸び多くが葉をつけ生長している。
ただ、人間と同じように苗木の個体差や、土壌との相性もあるのだろう、生長度合いはまちまちだ。7月になっても全く芽を出さない苗木もある。しかし、それでいい。全部が全部、同じように生長し、15年経ったら同じように漆が掻けるようになる必要もない。
植えた苗木は、私たちが育てているのではなく、あくまでも自然の営みが育てている。これから先も色々な試練に直面するだろう。病虫害の心配もしなくてはならない。ただ植栽するだけなら誰でもできる。大切なことは、成木になるまでの長い時間、見守り続けることだ。それは、一本一本のウルシに対する私たちの、途切れることのない愛情でしかない。
▼木としてのウルシと樹液としての漆
漆は、一度硬化した後は溶かす溶剤がないほど強力な接着力を持ち、優れた耐熱性や耐酸性を発揮するため「自然界最強の塗料」とも言われている。
接着剤や塗料の他にも、ウルシの果実から得られる蝋は、ろうそくや木床用ワックスとして利用してきた歴史もある。また近年では、陶器などの割れや欠けなどを修復する「金継ぎ」も静かなブームだ。
こうして日本人は長い間、ウルシと漆を日常の暮らしの中に取り入れ、その文化を連綿と受け継いできた。
ウルシはウルシ科の落葉高木で、日本では広い地域に分布しているが、その樹液である漆の産地は限られている。現在、国内産地は1道1府11県にとどまり、自給率は9%にしかすぎない。
国産漆の生産量が少ないことから、最近、小規模ながら日本各地でウルシの植栽が始まっている。しかし、漆が掻けるようになるまでには下草刈りや施肥などの管理をしながら、長い時間が必要となる。ことは一朝一夕にはいかないのだ。
▼「殺し掻き」と「養生掻き」
苗木は植えてから13年~15年ほど経つと樹高が8~10m、幹の太さが15㎝ほどに生長し、ようやく漆が採れるようになる。幹に傷をつけて樹液を採るのは6月中旬~10月ごろまで。
採取の方法は「殺し掻き」という物騒な呼び方をされている。これは生長した木から一年で掻きとってしまう方法だが、その量は一本当たりわずか180グラム程。牛乳瓶一本程度にしかすぎない。
まさに「漆の一滴は血の一滴」に匹敵する。
漆の採取後、ウルシは根元から伐採されてしまう。ただ二代目以降は切株から出てきた萌芽樹を育てる「萌芽更新」や、種子から苗木をつくる「実生苗」を植栽して再生産されていく。
「殺し掻き」に対して中国で広く行われているのが「養生掻き」と呼ばれる採取方法だ。何年にもわたって木を活かしながら漆を掻く方法で、言葉は穏やかだがそのやり方は荒っぽく、採れる量も少ない。かつては品質の低さが問題になっていた。
▼元祖は中国か? 日本か?
世界最古の漆塗りは中国で発見された木製の弓矢(約七千四百年前)とされ、漆の利用は技術とともに大陸から日本へ伝わったと考えられていた。ところが、函館市にある垣ノ島遺跡から出土した漆が塗られた装飾品が約9千年前のものと判明。またウルシも中国から持ち込まれたものでなく、もともと日本に自生していたのではないかと考えられている。
ただ、漆の国内生産・輸入量の推移を見ればわかるように、日本の漆文化は長らく輸入に支えられてきたことがわかる。そのほとんどは中国産だが、近年、経済発展に伴う都市化の波の中で、漆採取者の担い手不足と国内需要の高まりもあって、輸出量は一貫して減少している。いつまでもあると思うな「中国産漆」なのだ。
▼国産への転換
文化庁は、「2015年度から、国宝・重要文化財建造物の保存・修復に伴う漆に関し、原則として国産漆に限定する」という方針を打ち出した。
中尊寺金色堂や金閣寺、日光東照宮など日本を代表する歴史的建造物のすべてに漆が使われているが、これらの保存修理だけでも年平均約2・2tの漆が必要と試算されている。林野庁の直近のデーターによれば、生産量は増加傾向にあるものの2021年の国内生産量は2・0t。未だに200㎏が不足することとなる。
その他、漆器などへの利用も含めると、国産漆の生産拡大は、この国の漆文化を持続させていくためにも喫緊の課題になっている。
*連載* 人物クローズアップ 第1回
漆掻き職人・塗師
鈴木健司さん
鈴木健司さん
このプロジェクトがまだ準備段階だった2022年11月、私たちは国産漆の八割以上を生産する岩手県二戸市浄法寺町を訪ねた。そこで、漆掻き職人と塗師という二足の草鞋を生業とする鈴木健司(取材時54歳)さんに会い、国産漆の現状を聞いた。
▼漆を掻ける木が無い
鈴木さんが、浄法寺に来たのは2005年。その時から17年、鈴木さんは当時と現在の変化をこう説明した。
「浄法寺は周りを山に囲まれていますから段丘が多い地形です。昔はそういった所を開墾して、タバコを栽培していました。ところがタバコの生産は重労働。そこで、年齢を重ね農作業が難しくなってきた人達がウルシを植えたりしていました。私が来た当時、浄法寺の漆掻き職人は皆おじいちゃんばかりで15人ほどしかいませんでした。
その頃は、漆を掻ける木もたくさんありましたから天国でした。でも、今は掻ける木も少ないし、職人も40人に増えましたから競争ですよ」
鈴木さんは、漆掻き職人は漆を採るだけではなく、10年後、20年後を見据えてウルシを植えていかなくてはならないと常々考えてきた。地元で声をあげたこともあった。しかし、なかなか受け入れられなかったという。
▼会津漆器を学び浄法寺へ
鈴木さんの実家は会津漆器の製造会社だった。ただ、機械化されたいわゆる大量生産の漆器製造を主としていた。
一方、鈴木さんが求めたのは、伝統に根ざした本来の会津漆器。父親に、その伝統技法を学ぶために「会津漆器技術後継者養成所」に進みたいと相談したところ、「まんま食えないぞ」と一蹴されてしまう。それでも父親を説得、無事入学を果たし卒業した。
その養成所で巡り合ったのが、自ら採った漆で漆器を作る故・谷口吏さんだった。その姿を見て、弟子に志願するが最初は門前払い。しかし、諦めることなく何度も訪ねるうちに、教えを乞うことができるようになった。そして徐々に手塗りの漆器づくりに魅了されていく。
「そこで、師匠に『もっとうまくなりたい』って言ったら、『それなら浄法寺に行け』と言われて、ここに来たわけです」
▼「とにかく植えてください」
鈴木さんは浄法寺にある「日本うるし掻き技術保存会」が実施する漆掻き職人研修制度を利用し、本格的な漆掻き職人としてのキャリアをスタートさせた。以来、今日まで初夏から秋までは漆を求めて山々を巡り、冬から春までは塗師として自ら採った漆で漆器を製作してきた。
そんな鈴木さんがいま最も懸念するのは、漆を掻ける木の需給バランスだ。
生産量が国内トップの浄法寺でさえ、伐採量が増える一方で植栽数が追いつかないため、総体的にウルシの木が減ってきているという。
だからこそ鈴木さんは、阿武隈にウルシを植えたいという私たちの背中をこう押してくれた。
「まずはそこにウルシの木があることが大切です。原発事故の影響で利用できなくなってしまった耕地や、後継者不足で放棄されてしまった畑などに、とにもかくにも植えてください。木さえあれば、誰かが掻きます。漆掻きについては、私が指導している若い女性もいます。なんなら私が福島へ掻きに行ってもいいですよ」
豆・知・識
クロモジってなに?
今春、私たちが植えたのはウルシだけではない。50本というわずかな数だが、クロモジも実験的に植栽している。その最大の理由はウルシとクロモジの特性を活かした「棲み分け」に他ならない。
▼クロモジは半日陰が適地
クロモジは、北海道西部から九州北部の低山地に自生しているクスノキ科の落葉低木(日本原産)で、枝にできる黒い斑点が文字のように見えることからクロモジと呼ばれるようになった。
自生しているクロモジはブナの木の下によく見かけ、その環境から考えると極端な日差しは好まず「杉林の日陰が最適地」とも言われている。
今後、私たちが植栽地として選択する場所には、半日陰や日陰といった土地も含まれてくるだろう。陽当たりの良い環境を好むウルシだけにこだわって植栽地を見過ごせば、生業づくりにつなげる里山の再生に、相当な時間がかかることは必至だ。
▼管理が容易で利用価値も多彩
しかし、私たちがクロモジを選んだ理由はそれだけではない。クロモジは耐寒性、耐暑性に優れ、水やりや施肥といった日常の管理もそれほど神経質になる必要がないと言われている。猛暑の中で草刈りをしなくてはならないウルシとは天と地ほどの違いがある。
クロモジは、これまで高級楊枝や生薬の原材料として重用されてきた。また最近ではお茶や入浴剤としても利用され、中でも希少な和製エッセンシャルオイルとして人気も高い。
このように利用価値の多いクロモジを、最近では「森の資源」として活用する動きが日本各地で起きている。つまり、ウルシと同様に出口を見通すことができる樹種ということだ。
▼生長も早い
さらにもう一つ大きな理由がある。生長の速さだ。苗木の植え付けから2~3年で1mを超え、5~6年でその利用が可能となる樹高2~3mに生長する。ウルシが13年から15年かかるのと比較してクロモジのもつこのアドバンテージは大きい。ウルシの1回転に対して2~3回転が可能となるからだ。
私たちは当面、クロモジをウルシから漆が掻けるようになるまでの「つなぎ役」として位置付けている。しかし、クロモジの持つ多岐にわたる可能性を考えれば、将来的にはウルシと肩を並べる存在になるのではないか、と期待している。
第1回 臨時社員総会開催
2023年5月3日(木)、長野県塩尻市にて社員全員が参加して第1回臨時社員総会が開催された。左記に決議した活動方針のみ紹介する。
- 来期(1月~12月)以降の植栽地は、田村市船引町の福島事務所から車で60分以内の地域を対象とし、それぞれの地域に代表世話人を置く。
- 「牛の背」の生業化に向けて、来期以降の目標植栽数は最低でもウルシ2000本、クロモジ500本とする。尚、クロモジの植栽数はウルシと同数程度となることも検討する。
- 事業活動の広報として、映画「失われた春」の全国規模での上映会開催と、60分版のミニ上映会を開催する。
連載
漆産地を訪ねて
第1回 木曽漆器
漆の持つ艶やかな色合いが美しい「木曽塗」は、長野県南部、山と山に挟まれた木曽平沢(旧楢川村)の集落を中心に作られている漆器で、江戸時代に栄えた中山道の宿場町・奈良井宿で白木細工に漆を塗ることから発展した。今回、その平沢で生まれ育ち、今も木曽漆器にかかわりながら、「牛の背ウルシぷろじぇくと」の共同代表の一人でもある酒井氏に、木曽塗の話を二回に分けてお話していただいた。
木曽塗古今噺(上)
~そのはじまり~
酒井慶太郎
▼ イタモノとマゲモノ
木曽漆器を産業として飛躍的に拡大させたと言われているのはイタモノ(板物)の量産化です。イタモノとは主に膳類のことで、高度経済成長期に観光産業が盛んになり、ホテルなどの宴会場向けに飛ぶように売れたことが、現在に至る産地形成に繋がりました。また、その頑丈さを生かし、座卓などの家具も作られるようになりました。座卓は、昭和40年代の住宅ブームで人気となり、膳類とともに産地形成への一翼を担ってきました。
▼ 暮らしの中の木曽漆器
奈良井ではこの他、ミネバリの木から作られた櫛に漆を塗った塗櫛など、多様な生活用品がつくられるようになりました。当時、輪島などの他の漆器産地は、蒔絵や金箔などを施した高級品でしたが、木曽漆器は実用を重視した質素な塗りで、庶民の日常遣いに寄り添った製品作りに特徴がありました。
江戸後期になると、塗櫛は中山道を行き交う旅人が気軽に買える土産物としてメンパ弁当とともに人気になりました。後に加飾されるようになった塗櫛は、文明開化以前の女性の髪型から需要が高まったこと、また、コンパクトで持ち運びが容易なことが相まって注目を集めたと言われています。
▼ 木曽漆器の漆はどこから?
ただし、一つ不思議なことがあります。木曽平沢は中山道木曽路の最北に位置する漆工町とはいえ、今も昔もウルシの木の生育には適さない冷涼な山村でした。そんなところがなぜ日本を代表する漆器の産地になることができたのでしょうか?
次回は私たちの先達が、この地で漆をどのように調達してきたのか、そのお話をしたいと思います。
(次号に続く)
編集後記
この「ぷろじぇくと」を進めるにあたって、私たちは、主たる事務所を田村市船引町に置いた。理由は二つある。
一つは法人税を、たとえ少額であっても東京都ではなく地元に還元したいと思ったからだ。今一つの理由は、船引は「牛の背」のど真ん中に位置するという地理的理由からだ。
設立一年目の今春から夏にかけて、法人登記~植栽~草刈りと慌ただしく過ぎた。この半年を振り返ると、植栽地をいかに確保していくかが今後の最も大きな課題となっていくことだろう。