振り返れば、そこにウルシの木があったから・・・

福島県の中央を南北に貫く阿武隈川と太平洋とに挟まれた地域は、穏やかな山並みがどこまでも続いています。その昔、アイヌの人たちは、この地の山並みを「牛の背」と呼んだといいます。その説の真実は定かではありませんが、今を生きる私たちもアイヌの人たちの自然観に従い、この地の名称を敢えて「牛の背」と呼びたいと思っています。

2011 年3 月、その「牛の背」に放射能が降り注ぎました。福島第一原発の爆発事故は、この地の里山地帯を広範囲に汚染し、当時、日本屈指の生産地だった椎茸用原木の供給は停止、露地栽培の原木椎茸も出荷制限を余儀なくされてしまいました。その状況は、10 年以上がたった今も基本的には変わっていません。


明治時代、環境破壊の原点とも言われる足尾銅山の鉱毒事件に対して、後半生を捧げた田中正造は晩年の日記にこう記しています。

『真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし』

原発事故は、この日記が書かれてから99 年後に起きました。豊かさと便利さを求めて私たちが作り上げてきた文明は、100 年前とさして変わっていなかったのです。この100 年近くの間、私たちは一体何をしてきたのでしょうか? 現代文明を享受してきた一人ひとりが真摯に問い直さなくてはなりません。


かつて、この国の中山間地で暮らす農家の冬場の収入を支えてきたのは薪と炭でした。しかし、その薪炭林も昭和30 年代から始まる燃料革命の中で、壊滅的な危機を迎えた時がありました。 その時、この危機を食い止めたのが時を同じくして新しく生まれた原木椎茸の人工栽培でした。

「牛の背」で原木椎茸を栽培する農家の方々に「当時、福島県を代表する農産物といえば、米か養蚕か葉タバコ。 それがなぜ原木椎茸だったのですか?」と、尋ねると、多くの農家はこう答えてくれました。

「就農した昭和40 年代、さてこれから何を作ろうかと考えていた時、振り返れば周辺の里山には数百年の長きに渡って代々受け継がれてきたコナラやクヌギの木が豊富にありました。そのことに気付いた時、この木を利用しない手はない、と思ったからです」

薪炭時代のコナラやクヌギは、そのまま椎茸用原木として利用することができたのです。「 牛の背」の里山は薪炭林から原木林へと変化しました。その移行は、偶然だったかもしれませんが、木を利用した新たな産業が起こることによって、「 里山の経済と暮らしと景観」は途切れることなく今日まで受け継がれてきたのです。


しかし、その持続可能な里山の経済は原発事故によって一変してしまいました。 原木としてのクヌギやコナラは汚染され、今は使うことができません。 再び利用できるようになるまでには途方もなく長い年月が必要になるでしょう。その時、自然に寄り添って生きてきたこの地の暮らしはどうなっているでしょうか? 田中正造がいみじくも語ったように山は荒れ、やがては原生林となり、村は破れて人がかつて暮らしていた痕跡すらなくなっていることでしょう。


今回の事故を招いた国と東電の責任は計り知れなく大きく、 加害者にしっかりとその責任を取らせ、元の環境に戻させることは当然のことです。しかし、それだけで良いのでしょうか? そもそも原発は国や行政が推進してきたものです。ならば、その事故を起こした当事者に復興・再生の全てを委ねるのはおかしなことです。

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